Sermon法 話

仏法足りてますか?


仏法を聞くことを聴聞といいますね。「きく」という漢字を二つ重ねています。白川静先生の常用字解によると、「聴」とは『神に祝詞を唱えて祈り、神の声、神の啓示・お告げを聞くことができることをいう。神の声を聞くことのできる聡明の徳を「聴」といい、それで「きく」の意味となる』とあります。

「聞」は形で解釈すると、門の中に耳がありますね。聞いたことが右から左に抜けないように、胸に落ちるように聞きなさいということです。
この二つの文字を合わせれば、「仏法を聞くときは胸に落ちるようにしっかりと聞きなさいよ、そうすれば仏の教えを聞いたお徳がいただけますよ」とでもなるでしょうか。

平成の初めまでは、信者さんのご自宅で説法の座が開かれるというのがよくありました。今は家の作り自体が説法の座をするのに適していないというのもあるでしょうし、次の世代に仏法が相続されにくくなっているというのもあるでしょう、ご自宅での説法の座は全くと言っていいほど無くなってしまいました。その代わり、公民館や施設での法話の会というのが増えてきました。

初代住職が子供の頃は、晩になるとそこらじゅうで説法の座があり、祖母に連れられて毎晩のように聞きに行かされたそうです。
「小学生にお坊さんの難しい話が分かるはずがないのですぐに舟をこぎ始める。すると横に座っているおばばちゃんが、顔は前を向いたまま私の太ももをギューッとつねるので痛くて目が覚める。眠くなるとまたつねられるの繰り返しで、無理やり聞かされた。分からんでも聞かされたことが無駄ではなかったというのが後になって分かった。頭では分からんかったけれども、魂が聞いていたんやなあ。」
とよく話してくれました。仏法は何べんでも聞いて胸に落とすということが大事なのですね。

当山では年間スケジュールにありますように、月に二回、祈祷と法話の会があります。身近な話題を取り上げた分かりやすい法話ですので、お気軽においで下さい。仏法を聞くことがもっと身近になればなあと思います。

(福井新聞「心のしおり」欄に掲載分を手直ししたものです)


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