History歴 史

弘法寺初代住職
齋藤智照(ちしょう)法尼について

[初代住職]斎藤 智照師

[初代住職]齋藤 智照法尼

幼少期
弘法寺は昭和21年に齋藤智照法尼によって開かれたまだ歴史の浅い寺です。智照法尼は大正6年10月8日、父齋藤豊松、母しげのの9人兄弟の長女として新潟県新発田市に生を受け、美代子と名付けられました。
父親の仕事の関係で新発田におりましたが、ほどなく実家のある福井県鯖江市に戻りました。小学校3年生までは蝶よ花よと育てられましたが、父親が人に騙されて家を取られてしまい、一夜のうちに貧乏のどん底に落とされてしまいました。自分の家なのに入ることもできない、外で呆然と立ち尽くす両親の姿を後ろから見ている美代子の胸に、何故か「明日ありと思う心のあだ桜 夜半に嵐の吹かぬものかは」 という親鸞上人9歳の時に得度を受ける際詠んだと言われる歌が響いてくるのでした。
長女の美代子は口減らしのために小学校4年生から3年間、母方の実家に預けられました。母方の実家は商売をしており、若奥さんに乳飲み子がおりましたので子守奉公にやられたのです。しばらくの間、赤ん坊をおんぶして学校に通いました。赤ちゃんですから当然泣くときもあります。泣くとうるさいので、美代子の机だけ廊下に出されていました。
母方の祖母は仏法に篤い厳格な人でした。方々から法を聞かせてほしいと訪ねてくる人がいたくらいです。掃除の仕方が悪いとほうきの柄でガツンと殴られます。福井は浄土真宗の盛んな土地柄で、当時は晩になると至る所で説法の座がありました。祖母は美代子を毎晩のようにお説教を聞きに連れて行きます。赤ん坊をおぶって学校に通っていますから夜になると疲れて眠くてしょうがありません。小学生の美代子にお坊さんの難しい話など頭に入るわけがなく、すぐにコクリコクリと居眠りを始めます。すると横に座っている祖母が顔は前を向いたまま美代子の太ももをギューッとつねります。痛くて目が覚めますが、しばらくするとまた居眠り、またつねられるの繰り返しで、美代子の太ももには3年間青あざが絶えませんでした。お説教が終わるともらえる飴玉一粒が、その頃の美代子のただ一つの楽しみでした。
あまりの厳しい毎日に、美代子は「このばあちゃんさえいなければ、父ちゃん母ちゃんの元に帰れるのに。」と思うようになりました。するとある時、その人の写った写真の顔のところに針で穴をあけるとその人が死んでしまうということを聞きました。これはいいことを聞いたと美代子は早速祖母の写真を探しました。やっと一枚見つけると喜び勇んで夢中で祖母の顔のところを針で突っつき始めました。夢中になり過ぎて後ろから手を取られるまで人の気配に気づきませんでした。後ろを振り返ると祖母でした。厳しい祖母のこと、こっぴどく怒られるとびくびくしておりますと、祖母は「美代子、こっちに来なさい」と仏間に連れて行きます。お仏壇の前でしばらくお勤めをしてから美代子の方に振り返ると祖母は「今、親様である阿弥陀様が孫であるお前の姿を通して私が疑いの毒針で阿弥陀様を突いていることを見せてくれたんじゃ。」と言って、美代子に手をついたのです。この祖母の姿を見て、美代子は「うちのばあちゃんは普通の人とは違う。」と思いました。
祖母は美代子がお説教を理解できると思って説法の座に連れて行ったのではありません。分からなくてもその場に居て聴くということを続けていくのが大事だと思って連れて行ったのです。その通り、後になって、3年間分からないながらも聴かされたことが無駄ではなかった、頭では分からなくても魂が聴いていたのだと分かるのでした。
青年期
3年間の母方の祖母の元での生活が終わり、機織りの工場に勤めに行くようになりました。20才になって好きな人ができ、両親の猛反対を押し切って一緒になったものですから勘当されてしまいます。女の子を授かるも、しばらくして夫と別れてしまします。次に一緒になった人との間に男の子を授かるもこれまた別れてしまいます。よほど夫運が悪かったのでしょう。勘当されていますので両親に頼るわけにもいかず、2人の幼い子供を抱えたシングルマザーになってしまいました。昭和初期のシングルマザーですから、生活は困難を極めました。2人の子供を育てるために自分は食うや食わずで働きづめ。美代子は身も心も疲弊していきます。絶望した美代子は三度親子心中を図ります。死にきれなかった美代子は最後に川へ入って死のうと思います。夜になって二人の子供の手を引いて河原まで来ました。子供の着物のたもとに石を詰めて、「これから美味しい食べ物がいっぱいあるところに行くからね。」と言って周りに人のいないのを確かめてから橋の欄干に足をかけて川に飛び込もうとすると後ろから「待てー!」という声が聞こえます。誰かに見られていたのかと振り返っても誰もいません。気を取り直してもう一度飛び込もうとするのですが、恐ろしくてもう一歩も足が前に出ません。仕方なく家に戻ると「私には死ぬこともできないのか!」と絶望感に打ちひしがれて涙のうちにいつの間にか寝入ってしまいました。すると夢の中に白い衣を着た観音様が現れ、「苦しむお前よりもそれを見守る諸仏諸菩薩の方がどれだけ辛いことか。この眼(まなこ)を見よ!」と言われると、観音様の両目から水晶玉のような涙がポロポロとこぼれ落ち、部屋の中がその涙で溢れていくのでした。観音様は「3年待て、3年待てば仏が何故おまえを死なせなかったかが分かるであろう。3年待てー!」と言われ消えられました。その「待てー!」の声が河原で聞いた「待てー!」の声と同じだったのです。目が覚めた美代子は不思議なこともあるものだと、観音様の言われたことを信じて今一度生きていく決心をしたのでした。
お大師様に救われる
観音様の言われた3年が過ぎたころ、29歳の美代子は病床にいました。栄養失調と過労から結核にかかってしまったのです。貧困のため満足な治療も受けられず医者からも見放されていました。この時美代子は合点しました。「3年待てと言うのは3年後には自分で命を絶たずとも病で死んでいくということだったのか。私は死ぬのは怖くはありません。けれども最後に一つだけ教えてほしいことがあります。私がこれまで信仰してきた南無阿弥陀仏の六字の名号は死んでからでないとお働きくださらないものなのか、この世で生きてお働きくださるものなのかどうか教えてください。」と阿弥陀様に一心に念じました。その晩の夢の中に墨染めの衣を纏い深編笠を被ったお坊様が現れ、「口を開けなさい。」と言われます。美代子が口を開けると竹筒から3滴の水を垂らしてくださりすっと消えられました。次の夜もその次の夜もそのお坊様が現れ、同じように3滴の水を口に入れてくださいます。それが7晩続き合計21滴の水が美代子の口に入りました。8日目の朝起きてみると何となく気分がいいのです。それから日に日に快復し起きられるようになりました。うれしくなった美代子はそのお坊様に念じました。「私を救ってくださった方はどなたでしょうか?私が知っているのは親鸞様か蓮如様か法然様しかありませんが、どうも違うようです。あなたは一体どなたなのでしょう、教えてください。」。再び夢枕に現れたお坊様は「弘法大師」と言われました。しかし、弘法大師と言われても美代子は誰かさっぱり分かりません。「もしあなたが私に今まで信仰してきた南無阿弥陀仏を捨てて来いと言われるなら私はお断りいたします。」と言ったのです。自分を助けてくださった方にこのように言えるほど美代子は阿弥陀様一筋だったのです。「高野の山の岩陰に入定せしが弘法大師なり。世世に不思議を現わして弥陀の手助けするのが大師の仕事である。人間というものは何か災いが来るか病気になるかしないことには神仏の前に本当の心の手が合わないものである。そなたは弥陀の本願の入れものなるが故に、これから大師がそなたに乗り移って如何なることも教えて進ぜるほどに、病気や悩みを持ってくる人をご縁として心の業病に六字の妙薬を授けよ。」とおっしゃりました。お大師様は、「仏の慈悲は空のごとし、海のごとし、南無阿弥陀仏に勝る功徳なし。」と答えられ消えられました。南無阿弥陀仏を捨てなくてもいいのだと安心した美代子は、それからお大師様の信仰の道に入ったのでした。
何故お大師様に救われたのか?
阿弥陀様の信仰一筋で弘法大師様のことを全く知らなかった美代子が何故お大師様に救われたのでしょうか?
お大師様の信仰の道に入ってから初めて高野山に上った時のこと、初めてですから右も左も分かりません。壇上伽藍のお参りを済ますと夕暮れになってしまいました。今夜の宿はどうしたものかと途方に暮れていると、お遍路姿で真っ白いひげを生やしたご老人が声をかけてくださいました。「もしもし、あなたは今夜泊まるところがあるのですか?」「いいえ、どこもあてがないのです。」「そうかそれでは私が頼んであるからついて来なさい。」と言われるではありませんか。後をついて行きますと壇上伽藍根本大塔裏手のお寺に連れていかれました。「ここのお寺に頼んであるから行きなさい。」と言われるので入っていくと中から執事さんが出てきて、「どうぞどうぞ、お入りください。」と迎えてくださいました。あのご老人にお礼を申さねばと後ろを振り向くのですが、もうそのご老人の姿はありませんでした。そのお寺が西禅院というお寺でした。西禅院様のご本尊様は阿弥陀如来様で何と親鸞聖人様もお祀りされているのです。浄土真宗にご縁の深いお寺だったのです。何もわからないまま導かれたお寺が浄土真宗にご縁があるお寺だったということは、西禅院様の阿弥陀様と親鸞様が齋藤美代子という女を救うためには弘法大師様のお力が必要ということでお大師様につないでくださったのではないかと思うのです。それだけお大師様のお加持力が強いということでもありましょう。
表面上は色んな宗派に分かれていて教えも異なる点があります。しかし仏様の世界というのは奥底ではみんなつながっているということがこのことからお分かりになるのではないかと思います。仏様のお慈悲の世界というのは一宗一派に限られる小さなものではなく、限定されない広大無辺のものなのです。
寺院建立まで
美代子は真言宗国分寺派の本山大阪国分寺の西口公教管長猊下のもとで得度し、僧名を智照(ちしょう)といただきました。狭い借家で観音様の掛軸一本から拝み始め、厳しい修行に打ち込み、相談に来られる人々を導いていきました。ある日、行者仲間と奈良の春日大社にお参りした時のこと、春日明神様から「お前は三方に仏を出す行者となるであろう。」と「三一(さんいつ)」の名前を授かります。どういうことだろうかと思っていると、昭和42年に高野山の西禅院様に大日如来様を奉納することができました。昭和45年には長野の善光寺大勧進様の境内に水子救苦観世音菩薩様を、昭和55年には本山大阪国分寺様に阿弥陀三尊像を奉納することができ、春日明神様のお告げの通り、三方に仏がお出ましになりました。この功績により昭和55年に本山国分寺西口公教猊下より「大禅尼(だいぜんに)」の位を授かりました。
それでは「三一」の「一」は何を表しているのでしょうか?「一」は扇の要、寺院建立を表していました。昭和59年暮れにお大師様から「南方に寺院建立の地あり。」とのお告げがありました。昭和61年10月に当時の祈祷所から南の方角にあった現在地に本堂三一堂が完成、霊場滝・四国八十八か所お砂踏み霊場を整え、平成元年10月8日、智照法尼73歳の誕生日に落慶法要が厳修されました。昭和63年には本山国分寺より「大僧正」の位も拝受しております。40年以上前にいただいた「三一」に込められた意味がここに成就したのです。
たらいの教え
智照法尼が仏門に入って人々を導くようになってからも、なかなか自分自身の状況や心持ちが楽になりませんでした。「何でこれだけ拝んでも楽にならないのだろう。もう拝んでやるもんか。」とへそを曲げたこともありました。そんな時にお大師様が教えてくださったのがたらいの教えです。「智照や、たらいに水を張って〈私が〉と自分の方に引いてみよ。水は向こうに逃げていくだろう。反対に〈あなたへ〉と向こうに押してみよ。回りまわって自分の方に来るだろう。仏の仕事とはこのように、外堀から徐々に埋めていって最後に自分のところが成就するのである。おまえは外堀が埋まっている間に大師の袖を放すでないぞ。」
私達は何か一ついいことをするとすぐに見返りが欲しいものです。しかし仏の世界はそういうものではないと言われるのです。智照法尼は「自分の状況や心持ちが本当に楽になるまで40年かかった。それだけ私の業が深いということだったのだ。」と言っておられました。外堀が埋まるまで40年の年月が必要だったのです。三一の名前もまさにその通りで、三方に仏を出した功徳によって、最後に自分の寺が成就したのです。

智照法尼は平成10年8月14日、お盆の最中に仏のお浄土へとお戻りになりました。数え年82歳でした。その人生はまさに仏様の教えを体現した人生でありました。

沿革

沿革
昭和61年10月本堂建立
昭和62年10月霊場滝曼陀羅池建立
平成5年10月研修場建立
平成11年8月初代住職尊像墓建立
平成25年8月永代供養堂建立