Sermon法 話

道中の大切さ


私は例年8月上旬に一週間程、本山からの辞令を受け高野山で布教をしてきます。今年も8月6日から6日間行ってきました。

平成16年に「紀伊山地の霊場と参詣道」が世界文化遺産に登録され、高野山も世界遺産になってから外国の方の参拝が増えました。特にヨーロッパからの旅行者が目立ちます。

7日夕方、お勤めを終えて大門へお参りに行きました。その途中、一人の白人女性が声をかけてこられました。「タクシーに乗りたいのですが」と言われるので、どこまで行くか尋ねると、歩くと20分以上かかる宿坊でした。5時を過ぎていたので宿坊に電話をかけたら、できるだけ早く入ってほしいと言われたので、タクシーで行きたいということだったのです。最寄りの本山金剛峯寺前のタクシー乗り場にお連れしました。5時を過ぎていたのでいるかなと心配でしたが、一台停まっていて、無事乗ることができホッとしました。

歩きながら話していると、イタリアから来たと言われ、何とふもとの九度山から6時間かけて歩いて登って来たというではないですか。それで着いたのが夕方になってしまったのです。その日は高野山上でも30度を超えていたので、ふもとでは35度くらいあったはずです。よく熱中症にならずに済んだものです。

しかし、昔は車もケーブルカーもなかったので、歩くしかありませんでした。高野山参拝となれば一大事、自分の足で一歩一歩踏みしめてやっと山上にたどり着いた時の感慨は、今とは比べものにならないほど大きかったことでしょう。その感慨が高野山第一番のご詠歌
「たかのやま 山にはあらで はちすばの 花坂のぼる 今日のうれしさ」
に表されています。

参詣の道にはそういった幾千万の先人の思いが詰まっているからこそ、道が合わせて世界遺産に登録されているのです。お大師様も「人の昇沈は定めて道にあり」、人の在り方というものはその人がどのような道を歩むかによって決まるのだ、とおっしゃっています。道中、プロセスの大切さを改めて思い起こさせていただいた出会いでした。

(福井新聞「心のしおり」欄に掲載分を手直ししたものです)


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