Sermon法 話

便利さも慣れてしまえば…


この頃はそうでもなくなったようですが、少し前までは訪日中国人観光客のツアーは4泊5日くらいで東京、京都、大阪などをさっと見て回る弾丸ツアーが多かったようです。旅行中、高速道路のサービスエリアやドライブインで休憩・食事をする時に、彼らが感動することがあるというのです。それはトイレがきれいなこと。

「便座、手洗いの水が温かい」「トイレが臭わない」「ドライフラワーや芳香剤が置いてあり、中国のショッピングセンターよりおしゃれ」という声があり、その中で最も感動したことが、空き個室を電光掲示板で示してくれるトイレがあることで、「日本人は使う人のことをここまで考えているのか」と感動するそうです。

確かに海外に行って帰国して日本の空港のトイレに入ると、きれいだなあと実感します。用を足している間に音を流す機械が付いていることもあります。手を洗う時、手を差し出せば自動で温かい水が出てきて、手を乾燥する機械まであるという至れり尽くせりぶりです。外国人旅行者が感動するはずです。以上のことを五七五七七でまとめれば、「日本では 便座温か 音が鳴る おしり洗って 手洗い自動」とでもなるでしょうか。

しかし、最初は感動したことも慣れてしまえば当たり前になってしまいます。中国人観光客は便座が温かいのにびっくりしたのに、それに慣れてしまった私たちは、逆に冷たいとびっくりしてしまいます。

ある宿坊寺院の方から聞いた話なのですが、最近夏休みなどに合宿に来て泊まる生徒の中で、手を洗った後に水道の蛇口を閉めずにそのまま流しっぱなしにして行ってしまう生徒が出てきたと言うのです。これは自動の手洗いを使い慣れているからつい閉め忘れてしまうのでしょう。

便利になるのはいいのですが、それが当たり前になってはいけません。当たり前は不平不満の種になります。便利さの中にも有難いと思える心を持ち続けたいですね。

(福井新聞「心のしおり」欄に掲載分を手直ししたものです)


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