Sermon法 話

木を割りて見よ花のありかを

今年は立春以降寒波が立て続けにやってきて、三月に入ってからは寒暖差が激しく、寒さが苦手な私は今年は特に春が来るのが待ち遠しかったです。

日本人にとって桜は特別な花ですね。しかし、奈良時代では花と言えば梅でした。万葉集では桜より梅の歌の方がずっと多いのです。花と言えば桜になったのは、平安時代に入ってからです。古今和歌集以降では、春の歌の中で桜を詠んだ歌が多くの割合を占めています。在原業平の「世の中に絶えて桜のなかりせば 春の心はのどけからまし」や小野小町の「花の色はうつりにけりないたずらに わが身世にふるながめせしまに」などは有名ですね。

桜の歌で私が思い浮かべるのが「年毎(としごと)に咲くや吉野の山桜 木を割りて見よ花のありかを」です。春になると咲き誇る桜の花ですが、木の中に花が埋まっているのかと、木を割ってみても花びらは一輪もありませんね。花になる因があって、色々な条件がそろうと花となって現れます。この歌は一休さんが山伏に問答を挑まれた時に詠んだものです。山伏が「仏法はどこにある?」と問うと一休さんは「胸の内にあり」と答えます。すると山伏は刀を抜いて一休さんの胸にあてて「それでは胸を割って仏法をみてやろう」と迫った時に詠んだのです。
桜の花と同じように、私たちの心の中にも仏法の因が宿っています。仏法を出してみよと言ってもその形はありません。仏様とのご縁にあって機縁が熟すると、春になって桜花が咲くように、仏法が花開くのです。

桜の花芽は秋に休眠状態になり、冬の十分な寒さにさらされると休眠から目覚めます(休眠打破)。寒さが十分でないと、開花が遅れたり花の数が少なくなったりするそうで、厳しい冬を乗り越えてこそ美しい花を咲かせるのですね。人生の厳しい冬を通り越してこそ、仏法が開花するのだよと教えてくれているようです。


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