Sermon法 話

岩坪眞弘大和尚の思い出

淡路島の七福神にお参りされた方はいらっしゃるでしょうか?淡路島を七福神様が乗られる宝船と見立て、島内の高野山真言宗の寺院七か寺を巡ると島をぐるっと一周するようになります。

淡路島七福神霊場の開創は昭和四十七年ですが、開創にかかわったのが大黒天霊場の八淨寺住職であられた故岩坪眞弘(いわつぼしんこう)大和尚(だいわじょう)(以下眞弘和尚とします)でした。眞弘和尚は高野山のお生まれです。高野山大学を出られて僧侶になり、ハワイの開教師を経て八淨寺に入られました。

眞弘和尚のお父様は高野山の西禅院という宿坊で納所(なっしょ・事務方)をされていました。私の祖母が弘法大師様に助けられて仏門に入り、初めて高野山に上った時に導かれたのが西禅院でした。初めて上ったもので、夕方になって泊まるあてもなく、どうしたものかと途方に暮れていた時に、遍路姿で白髪にあごひげを蓄えたご老人が現れて、「あなたは今晩泊まるところがあるのか?」と尋ねてくださいました。「いいえ、初めて上って来たもので、どこに行っていいのかわからないのです」「私が頼んであるからついて来なさい」と言われてついて行くと、根本大塔(こんぽんだいとう)の裏手のお寺に入っていきます。「ここに頼んであるから行きなさい」と言われ、中に入ると、岩坪納所さんが「どうぞどうぞ、お入りください」と迎えてくださいました。

それ以来、高野山に上ると納所さんは祖母に非常によくしてくださり、そのご縁で後年、西禅院のご住職の弟弟子であった眞弘和尚は、昭和五十年前後に西禅院ご住職の随行でうちの寺においでになったこともありました。私はその頃はまだ子供でしたので、眞弘和尚にお会いしたことはありませんでした。以後、眞弘和尚とうちの寺との交流は途切れていたのですが、ひょんなことからご縁が復活することになります。

眞弘和尚とのご縁が復活したのは平成十一年の夏のことでした。前年の八月に私の祖母である初代住職が遷化(せんげ・僧侶が亡くなること)して一年が経とうとする頃、私の高野山専修学院の同期生である和歌山のお寺の住職から電話がありました。「齋藤さん、淡路島の八淨寺さん、ご存じですか?」「はい、知ってます」「八淨寺さんが今、瑜祇塔(ゆぎとう・真言密教特有の円柱形の塔)を建てていて、十一月に落慶法要をするんですけど、そのお手伝いをしてもらえる人を探しているんです。八淨寺の奥さんから誰か紹介してと頼まれて、齋藤さんがいいのではないかと思い連絡したんです」「去年までは祖母の看病をしていて動けなかったのですが、昨夏に亡くなって、今だったら動けます」ということで、八月の初旬に八淨寺さんに面接に伺いました。応接室に通されて、眞弘和尚と奥様にご挨拶しますと、眞弘和尚が「福井の齋藤さんというと、智照(ちしょう)さんと関係があるんか?」「はい、私の祖母です」「ああ、そうやったんか、これは智照さんが呼んでくださったんやなあ」と大変喜ばれ、即決でお手伝いさせていただくことになりました。落慶法要が終わっても引き続き大祭や行事があるときにお手伝いに伺いました。

私が高野山本山布教師になれたのも眞弘和尚のおかげです。「あんた、本山布教師の講習は受けたんか?」「いえ、まだです」「それは受けなあかんで、わしが書類を揃えてあげるから受けなさい」と、講習を受けることができました。眞弘和尚は私の布教の大恩人なのです。
眞弘和尚は平成二十九年五月にご遷化されました。私がちょうどお手伝いに伺った日で、容体が思わしくないとお聞きして慌てて病院に行き、「おじゅっさん、齋藤です」と声を掛けますと、目を開けられて何か言いたそうなご様子でしたが、お言葉は聞き取れませんでした。それから一時間ほどして息を引き取られました。臨終の場に立ち会ったのは奥様と奥様のお姉様と私の三人でした。

私は毎日朝夕のお勤めの時に、眞弘和尚のお名前を呼んで、ご恩報謝のご回向をしています。これは一生続けます。眞弘和尚のことを思う時、世代を超えて再びつながった仏縁のありがたさをつくづく感じます。

(福井新聞「心のしおり」欄に掲載されたものに加筆しています)


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