Sermon法 話

紫式部と石山寺


滋賀県大津市の西国三十三所第十三番札所石山寺(本尊如意輪観音)は紫式部ゆかりの寺として有名です。

もともとは奈良東大寺の良弁(りょうべん)僧正が開いた寺で、華厳宗(けごんしゅう)でした。それが平安前期に真言宗の寺となりました。のちに第三代座主(ざす、住職のこと)となった淳祐内供(しゅんゆうないく、菅原道真公の孫にあたります)は、921年に空海上人が醍醐天皇から「弘法大師」のおくり名をいただいた時、師匠の観賢(かんげん)僧正に従って高野山にご報告に上がっています。お大師様がご入定されている奥の院の御廟(ごびょう)の扉を開けると、霧がかかっていてお大師様のお姿が拝めません。一心に祈ると観賢僧正には拝めたのですが、まだ若かった淳祐内供は拝めません。哀れに思われた観賢僧正は淳祐内供の右手を取ってお大師様のお膝に当てますと、膝のぬくもりが感じられ、お香の薫りが手に移りそれが生涯消えなかったと伝えられています。

淳祐内供は石山寺でたくさんの経典を書写されました。書写した経典にも薫りが移ったというので「薫聖教(においのしょうぎょう)」と呼ばれ、国宝に指定されています。

平安時代には観音信仰の高まりとともに貴族の間で都からほど良い距離の石山寺の観音様詣でが盛んになりました。清少納言、和泉式部、藤原道綱の母などきら星のように輝く平安女流文学者たちもこぞって石山寺に参詣しました。その中で特筆すべきが1004年に一週間参籠した紫式部です。ここで源氏物語が着想され起筆されたと伝えられています。紫式部が参籠した部屋は「源氏の間」として残っています。風光明媚な石山の地や観音様からインスピレーションをいただいたのかも知れません。
淳祐内供は953年に入滅されていますので、その後の世代の紫式部は「薫聖教」にまつわるエピソードも聞き知っていたであろうと思います。

このように、源氏物語誕生の背景に想像をめぐらすのも楽しいものです。

(福井新聞「心のしおり」欄に掲載分を手直ししたものです)


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