Sermon法 話

藤原道長と高野山


現在放送中のNHK大河ドラマ「光る君へ」の主人公紫式部と、紫式部が仕えた中宮彰子(ちゅうぐうしょうし)の父、藤原道長とは「生涯のソウルメイト」であるというのがNHKのキャッチコピーです。道長は藤原家を絶頂期へと導きましたが、仏教の信仰に非常に篤い人でもありました。自身、1019年54歳の時に出家していますし、晩年は京都鴨川の西岸に法成寺という壮麗な寺院を建立しそこに住んで、最期は阿弥陀堂の9体の阿弥陀像の手に糸を結び、それを自分の手まで引いて結んで、僧侶方が読経する中、念仏を唱えながら往生したと言われます。

高野山は山の上にありますので、しばしば落雷による火災に見舞われました。なかでも994年の大火は伽藍御影堂(がらんみえどう)を除いてすべて焼失してしまうという大災害でした。住む場所をなくした僧侶たちは山を下りてしまい、1001年から1016年までの山の荒廃はひどいものでした。1016年に高野山に上った祈親上人(きしんしょうにん)はあまりの荒廃ぶりに心を痛め、奥の院の弘法大師御廟前(ごびょうぜん)で青苔を集めて、「もし私が高野山を復興できるのであれば、この苔に火を灯してください」と祈りを捧げ、火打石を打つとたちまちに苔に燃え移りました。その後、上人は高野山に住して復興に生涯を捧げました。
祈親上人は貴族から帰依を受けていた真言宗の高僧仁海(にんがい)僧正の協力を得て勧進に努めました。仁海僧正の勧めによって、1023年に藤原道長の高野山参拝が実現します。京都を出発して戻るまで2週間の日程でした。この時、道長は奥の院灯籠堂を現在の灯籠堂とほぼ同じ大きさで寄進造営しています。道長の参拝以降、皇族、摂関家、貴族たちがこぞって高野山に参拝するようになり、復興の道を歩むことができました。

このように、高野山にとって道長は、復興を強力に後押ししてくれた恩人なのです。

(福井新聞「心のしおり」欄に掲載分を手直ししたものです)


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