Sermon法 話

異国での信心


2016年の春のことです。夕方6時の鐘を撞きに出ると境内のベンチに一人の若い女性が座っていました。感じからして東南アジア系の方かなと思いながら、「こんにちは」と声をかけて鐘を撞きに上がりました。

6時に寺の門を閉めるので、まだ座っていた彼女に「そろそろ門を閉めますのでいいですか?」と言うと、「ここはお寺ですか?」と尋ねてきました。かたことの日本語だったので、「どこから来たのですか?」と聞くと、ベトナムからとのこと。市内の繊維関係の工場で働いている研修生でした。帰り際に「また来てもいいですか?」と言うので「もちろん、いいですよ」と答えると「ずっと居てもいいですか?」と言うので、私は「ずっと居る」の意味が分からなかったのですが「何か予定が入っている時はダメだけど、何もないときは大丈夫ですよ」と答えておきました。

それから何日か経った日曜日に彼女がもうひとり研修生の仲間を連れてやってきました。色々話を聞くと、お詣りできるお寺を探していたようです。何か所か行ったところがすべて神社だったそうで、やっとお寺が見つかったと喜んでいました。そして、「佛様を拝んでいいですか」と尋ねるので、その日は予定が空いていたので、「いいですよ」と言うと、カバンの中から数珠と冊子を取り出して本堂の佛様の前に二人で座りました。最初何かしらの経文を唱えてから、立ったり座ったりする礼拝が始まりました。途中休憩をはさんで一時間以上続いたと思います。これで、「ずっと居る」の意味が分かりました。礼拝に時間がかかるので、長く居てもいいですかという意味だったのです。
冊子を見せてもらったのですが、500人の佛様の名前が書いてありました。もちろんベトナム語ですので、どんな佛様かは分かりませんでしたが、観音様が主なようでした。

それから二か月に一回くらいのペースで彼女はお詣りに来ました。連れてくる同僚はその時々で違いましたが、最初に連れてきた同僚とコンビで来ることが一番多かったです。

二年後、彼女がベトナムに帰る日が近づいてきました。以前からお礼のしるしに観音様の絵を作っているので、帰る前に持ってきますと話していました。帰国の日が決まったと挨拶に来た時にそれを持ってきてくれました。
それは、雲と後光が描かれた布の下地に観音様の姿を織り込んで額に入れたものでした(写真参照)。

当時彼女はまだ20代前半でしたが、信仰心の篤さに心を打たれました。ベトナムのご両親が信仰深くて、子供の時からお寺詣りに行っていたそうです。70才を過ぎても佛とも法とも知らず、刹那的に生きている人もいるのに、彼女は若いながらご両親からしっかりと佛法を相続して信仰を自分のものにしているなと感じました。なので、彼女は他の研修生とはちょっと違っていました。明るくて人を和やかにするような雰囲気を持っていました。
その信仰心が彼女をして言葉もまだ十分に理解できない異国で、一人で知らないお寺に飛び込んで佛様を拝みたいという心を起こさせたのでしょう。


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