Sermon法 話

寒天の教え


「寒天の溶けて無色の仏かな」


寒天を見ると思うことがあります。棒状の寒天は常温では濁っていますよね。それを水に入れて火にかけるとだんだんと溶けていってやがて透明になってしまいます。これを見ると私の心のありようもこんな感じじゃないのかなと思うのです。

今の私の心は棒寒天のように固まっていて濁っています。固まっているから境界がはっきりしていて、ここまでが自分でそれ以外は他人と区別しています。おまけに濁っていますので、本来の姿が分からず、私と他人、彼と此れは違うもの関係がないものと思い込むと「我他彼此(ガタピシ)」してうまく行きません。

その寒天を水に入れるとは法の水に浸すこと。火にかけるとは智恵の火に当てること。法の水に浸されて智恵の火にかけられた寒天はだんだんと自他の境界が無くなっていき、濁りが取れて透明になっていきます。我が無くなってすべてと繋がっているという本来の状態に戻るのです。まさに「空(くう)」です。水=慈悲と火=智恵というご縁に出会う時、本来仏の私の心に戻ることができるのです。

ここで不思議なのが、水は欲望の海というように、欲望に喩えられ、火は瞋恚(しんに)の炎というように怒りに喩えられます。火も水も仏法にも煩悩にも喩えられるということは、悟りも煩悩も表裏一体であるということを示しています。だから「煩悩(ぼんのう)即(そく)菩提(ぼだい)」、煩悩が即ち悟りであると言われるのです。煩悩があるからこそ悟りがあるのです。煩悩を悟りに転換してくださる仏法というご縁に出会うことが大切なのです。
寒天が溶けていく姿も無言の説法です。

(福井新聞「心のしおり」欄に掲載分を手直ししたものです)


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