Sermon法 話

環境と心


前に大リーグの大谷選手のゴミ拾いのことを書きました。
大谷選手は「人が捨てた運を拾う」という意識でゴミ拾いをしていましたね。

ゴミ拾いに関して私が杖言葉としているのが哲学者・教育者であった森信三さんの「足下のゴミ一つ拾えない人に何ができましょうか。足下のゴミを拾うことは 下座行(げざぎょう)の第一歩です。」という言葉です。

足下にゴミが落ちていても気付かない、拾わないというのではダメですよということですね。下座行とは座を下りての行と書いてありますように、自分を低い位置に置いて、高慢さを反省し謙虚さを磨くことで、掃除がその代表です。下座行はお坊さんの大切な修行の一つです。

世の中には「偉そうな」人はいっぱいいても、本当に「偉い」人はなかなか見られません。足下のゴミを拾う行為を第一歩とする下座行が、変なエゴやプライドを無くさせ、「偉そうな」から「そうな」を取り除いてくれるのです。
ゴミを捨てると、環境が汚れます。環境が汚れると自らの心も汚れてしまいます。というのは、心と環境はお互いに影響しあっているからです。

弘法大師様のお言葉がそれをよく表しています。
「環境は心に随って変わるものだ。心が汚れている時は環境も濁る。また、心は環境に影響されて変わるものだ。環境が落ち着いたものであれば心も明朗になる。環境と心が互いに通じ合うところに、自分の心と自然とが本来繋がっていることが深いところで感じられるのだ。」
と言われるのです。

ここからは自然を征服して利用するだけ利用しようなどという考えは出てきません。本来繋がったものであるから、共に生かしていこうという「共生」の考えが生まれます。

下座行の第一歩であるゴミ拾いも深まっていくと、こういう境地まで繋がっていくのです。

(福井新聞「心のしおり」欄に掲載分を手直ししたものです)


一覧へ戻る