Sermon法 話

満月の3つの徳


私達日本人は昔から月を愛でてきました。お空に真ん丸お月様が浮かんでいると、思わず手を合わせたくなります。

十五夜以降、だんだん月の出の時間が遅くなるので、旧暦16日晩のお月様を十六夜(いざよい、ためらいながら出てくるという意味です)の月と呼び、17日晩を立って待っているうちに出てくるので「立待ちの月」、18日晩を立って待つには長いので、座って待つ「居待ちの月」、18日晩を寝ながら待つ「寝待の月」と言います。 日本人ってほんとに風流ですね。

満月には三つのお徳があるといわれます。

一つ目は「清浄の徳」。
お月様の光は清らかな光です。「黄金の雨を浴びても、諸欲は満たされない」というように、欲というのは際限のないものです。満月の光がそのむさぼりの心を洗い清めてくださいます。

二つ目は「清涼の徳」。
お月様の光はお日様の光と違って熱くありませんし、直接見ても目を傷めることもない涼しい光です。「火の車 作る大工はなけれども 己(おの)が作りて吾(われ)と乗りゆく」という歌があり、「青筋は自己破滅の導火線なり」という言葉があるように、怒りの炎は自らを滅ぼしてしまいます。怒りの報いは自分で受けなければならないのです。その怒りの炎をお月様の涼しい光は鎮めてくださいます。

三つめは「光明の徳」。
闇夜に満月の光が差してくださるのはなんと有難い事でしょう。救いの光です。迷いのことを無明(むみょう)といいますが、闇に沈んだ迷いの心を満月の光が照らしてくださいます。お釈迦さまは縁起の法を悟られました。それを十二にまとめたのが十二縁起で、その最初に出てくるのが「無明」です。すべての煩悩のおおもとです。

私達が持っている基本的な煩悩が、今挙げた「むさぼり」、「いかり」、「迷い」の三つで、三毒煩悩(さんどくぼんのう)といいます。それを満月の三つの徳が鎮めてくださるのです。 そして、「仏心は満月の如し」といわれるように、満月は仏様の心に喩えられ、私達一人一人が仏様の心を本来備えています。

今度満月を拝まれた時に、この三つの徳の光を浴びていると観じていただいて、その三つの徳を備えた満月のような仏様の心を、私達は本来持っていると観じていただくとまた違ったお月見ができると思います。

(福井新聞「心のしおり」欄に掲載分を手直ししたものです)



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