Sermon法 話

何のために食べるのか


私はかつて、タイのバンコクにある大理石寺院というお寺で得度してタイの僧侶として10か月半を過ごしたことがあります。タイの朝の風物詩といえば、黄色やオレンジの鮮やかな色の衣を纏った僧侶が托鉢する風景ですね。私も毎朝托鉢に出かけました。大都市バンコクですから、鉢に入りきらないほどのたくさんの量をいただきました。それを朝昼2回に分けていただきます。夜の食事は戒律の規定によってありません。

タイ西部カンチャナブリに日本人僧侶が住職をしている寺があるというので訪ねたときのことです。最寄りのバス停からさらにバイクに乗せてもらってしばらく走った周りに何もない所にポツンと粗末な本堂が建っています。托鉢は集落の近くまで車で送ってもらって、それから1時間ほど集落内を托鉢して歩きます。ご飯と数種類のおかず、果物、お菓子を布施していただいて寺に戻り、皆でいただきます。バンコクに比べたらかなり少ない量です。

それが、鉄鉢の中にいただいたご飯とおかずをすべて入れて、手でかきまぜてから食べるのです。数種類のおかずが一緒くたに入るので、味も何もあったものではありません。大理石寺院ではおかずは別にして食べていましたが、ここは戒律を厳しく守る修行寺なので、食事というのはただ自分の体を維持するためにだけにいただくものというのを意識し、美食を戒めるためにそうするのです。

食品ロス、まだ食べられるのに捨てられる食品が問題になっています。平成28年の日本での食品ロスは643万トン、世界中で飢えに苦しむ人々に向けての世界の食糧援助量が平成29年で年間約380万トンなので、何とその1.7倍もの量が捨てられていることになります。国民一人当たりに換算すると、毎日お茶碗一杯分の食べ物を捨てていることになるそうです。何ともったいない話でしょう。犠牲となった命に対しても申し訳ないことです。

食事の第一の目的は、ただ私の体を維持するためであるということを意識したいですね。

(福井新聞「心のしおり」欄に掲載分を手直ししたものです)


一覧へ戻る